この記事ではMBTIの心理機能の中でもイメージするのが難しい内向的直観(Ni)について、考察していきたいと思います。
この記事は哲学的な内容を取り上げます。哲学は、あなたの価値観や世界観を大きく変えてしまうリスクがあります。それを踏まえた上でそれでも読んでくださるという方は、お付き合いいただければと思います。
はじめに
Niは「自身の内的イメージを捉える」「物事の本質を捉える」「事象や概念のパターンを導き出す」「無意識のひらめきに長けている」「諸要素を具体的なイメージに統合する」などの機能を持ちます。これら全てに共通するのはNiは無意識に働く機能であるということです。つまりNiを使う本人からしてもこの機能を自覚することは難しい機能と言えます。このことは後々重要なポイントになってくるので頭に入れておいてください。さて、この記事ではこれら全ての機能を取り上げることはせず「物事の本質を捉える」に焦点を当てて考察していきます。
本質とは
さて「Niは本質を捉える機能である」という説明ですが、「本質を捉える」とは一体どういう意味でしょうか。
本質をGoogle検索すると一番上に
「そのものとして欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素」
と出ます。これを元に本質について考えていきます。
では質問です。あなたの本質って何ですか?
…ちょっとすぐに答えを出すのは難しいですよね。
では、発想を逆転させましょう。例えば、あなたは不幸な事故に逢い、右腕を失ってしまったとします。片腕が失くなったあなたはあなたと言えるでしょうか?
…これはあなたであると言えそうです。
片腕がなくなったくらいであなたがあなたでなくなるはずはありません。つまり、「片腕はあなたの本質ではない」ということが言えます。じゃあ足は?小指は?片目が失くなったらどうでしょう?同じように考えるとどれも本質とは言えなさそうです。
このように不要なものを取り除いていき最後に残ったものがあなたの本質です。何となく”本質”というものが何なのか見えてきた気がしませんか?
ではさらに踏み込んでいきましょう。
あなたは不幸な事故に遭い、感情を失ってしまいました。もう2度と感情を取り戻すことはありません。感情を失ったあなたはあなたと言えるでしょうか。
推しが引退してしまって悲しい
職場の嫌な奴が責任転嫁してきて腹立たしい
ネットで新たな視点が得られて楽しい
好きな人からプレゼントをもらって幸せ
これが全部なくなります。
どうですか?
そんなあなたはあなたと言えますか?
流石に感情を失った自分は自分ではない?本当に?感情はないけど思考はできますよ。もちろん意識もありますし身体は自由に動かせます。朝日が眩しい、チョコレートが甘い、シャワーが冷たい、セックスが気持ちいい、といった五感も健在です。友達に冗談を言って笑わせることだってできるし子供を産んで育てることだってできます。
以上のように突き詰めていくとかなり難しいテーマであることがわかります。慣れない哲学的な話題に頭を抱えている人も多いのではないでしょうか。しかしNiユーザーの読者の方なら私の言葉に惑わされずパッと自分なりの揺るぎない答えが出せているのではないでしょうか?そう、その力こそが内向的直観(Ni)、本質を捉える能力です。
本質と主観
ここまでで既にお気づきの方も多いかと思いますが、
本質に答えは存在しません。
前章の最後に投げかけた
「あなたは不幸な事故に遭い、感情を失ってしまいました。もう2度と感情を取り戻すことはありません。感情を失ったあなたはあなたと言えるでしょうか。」
という質問、これに対する答えは”その人が感情をどの程度大事にしてるか”によって決まってきますよね。元から感情に乏しい人だったら感情を自分の本質とは考えないかもしれないし、喜怒哀楽が豊かな人は感情を自分の本質と考えるかもしれませんし、その考え方は千差万別です。
もっというなら
「あなたは不幸な事故に逢い、右腕を失ってしまったとします。片腕が失くなったあなたはあなたと言えるでしょうか?」
この質問に対する答えも人によります。片腕gaなくなったくらいであなたがあなたでなくなるはずはない、と先ほど私は言いましたが、例えばバリバリの仕事人間で右腕を使うようなような職についている人、絵師や野球選手の中には「右腕がない自分なんて自分じゃない」そう言った考えを持つ人がいるかもしれません。
そうなんです。本質は主観的なものであり、何を本質と捉えるかはその人がしてきた経験、持っている価値観や文化的背景、生まれ育った環境に大きく依存します。
つまり、物事の本質を見抜く(Ni)にあたってもちろんその物事自体への理解も必要なんですが、それ以上に自分自身に対する深い理解がないとできない芸当なのです。自分自身に対する理解と言っても何が好きとか嫌いとかいう次元の話ではなくもっと深い所、価値観・信念・経験・先入観などといった自己認識が必要なわけです。内向的直観(Ni)が理解されづらいのも頷けます。
以上のことを踏まえて
「あなたは不幸な事故に遭い、感情を失ってしまいました。もう2度と感情を取り戻すことはありません。感情を失ったあなたはあなたと言えるでしょうか。」
という質問に対する私なりの考えを簡単に記してみます。
感情を失った私は私とは言えない。
私はこれまでの人生の中で自分の情けなさに対する悔しさや怒りを感じることが多々あった。それは時に私を苦しめたが、そのような感情を持っていたからこそここまで成長できたし今の自分がある。感情なしでは私自身を語ることはできない。だから感情は私の本質であるし人の本質でもあると考える。感情は誰にとっても普遍的なもので尊重されるべきものだ。
これこそがNi的な思考であり、これを体現することがNiユーザーの理想となりビジョンとなり目的となるわけです。
これはあくまで私にとっての答えであり、みんながこう考えるべきという意味で言っているのではありません。何度も言うように考え方は千差万別十人十色です。こうした自分なりの本質的な考えを持つことがNiの機能の一部であると知っていただくために、この例を挙げさせて頂きました。
Niユーザーが理解されづらいわけ
Niユーザー、特にNiを主機能に持つINFJ、INTJの方でうまく相手の理解が得られず苦しんでいる人を何人も見たことがあります。一体なぜこのようなことが起きるのでしょうか。
以下の文章を見てください。
感情は私の本質であるし人の本質でもある。
感情は誰にとっても普遍的なもので尊重されるべきものだ。
この文章は前章の最後に記述した感情欠落問題に対する私の考えの前半部分を省略し、理想・ビジョンの部分だけを抽出したものです。
なんかちょっとわかりにくいですよね。いきなり感情は本質であるなんて言われても「うーん、、、」となりますし、何だか神秘的で圧を感じます。
このように、その結論に至った過程をすっ飛ばして理想やビジョンだけが一人歩きした発言や行動をしてしまうと、途端に理解が得られづらくなってしまうわけです。
しかし、Niは無意識に働く機能です。Niユーザーはこういった哲学的問題に対する答えを瞬時に、そして無意識に導き出します。つまり、何でその結論に至ったのかを意識的に自己認識して言語化・論理化する努力をしないと当の本人でさえも自分の考えを説明できないという状況が起こります。ここが不十分だと自分の理想やビジョンが相手にうまく伝わらず「不思議な人だな〜」で終わってしまい、生きづらさにつながっていくことになります。
要するに、
感情を失った私は私とは言えない。私はこれまでの人生の中で自分の情けなさに対する悔しさや怒りを感じることが多々あった。それは時に私を苦しめたが、そのような感情を持っていたからこそここまで成長できたし今の自分がある。感情なしでは私自身を語ることはできない。
という部分をどれだけ言語化し他者に分かりやすく伝えるかが円滑なコミュニケーションを取るにあたってのNiユーザーの課題になってくるというわけです。そしてそのためには深い内省と言語化能力、論理力、そして妥協が必要になってきます。
妥協に関してもう少し掘り下げていきます。言語化する、というのは妥協することにほかなりません。こういう経験はないでしょうか。「説明をすればするほど自分が本当に伝えたいことから遠ざかっていく…」という経験です。おそらくタイプに関わらず誰もが経験する感覚でしょう。特に今回取り上げたような哲学的な議論、抽象的な概念(愛とは何か など)について取り上げるときはこれが顕著になります。Niユーザーは基本的に抽象的に考えるタイプなのでこの現象がよく起きます。抽象的なこと、あるいは抽象的な理解を通して得られた結論を他者に伝えるためには言語化し、具体的事例を交えたり論理構造を組み立てて説明する必要がありますが、そのやり方はNiユーザーにとって本当に伝えたいことが伝えられなくなるという気持ち悪さを与えます。しかし我々人間は社会的動物である以上コミュニケーションは避けられません。説明を放棄すれば、自分の実現したいビジョン・理想を実現することが難しくなります。Niユーザーは本当に自分が伝えたいこととズレが生じてしまうことを受け入れつつ、実現のために説得力のある言語化を見繕うというふうにして折り合いをつけなければならないでしょう。ここはNiユーザーの人生の大きな課題のうちの一つになることが予想されますが、ここを克服すれば類いまれなひらめきや洞察力を生かして社会で活躍することができるでしょう。
・言語化したことがある程度の正確性を欠いてしまうのは諦める
・言語化能力(語彙力・論理力)を鍛える
この二つが大事になってくるでしょう。
本質と社会問題
本質については何となくわかったし、Niユーザーが本質を捉えてビジョンや理想を体現しようとすることも理解できたけど、そうじゃない人たちが本質について考える意味ある?と思う方もいるかもしれません。
しかし、よくよく考えてみると本質は社会的な問題に大きく関わってくることがわかります。例えば脳死です。「脳死は死んだうちに入るのか?」というのは重要な問題ですよね。専門家ではないから詳しいことは分からないですが遺産相続とか臓器移植に使っていいのとかそういう法律的なことにも関わってきますし何らかの結論を出さなければいけない。
「脳死が死んだうちに入るか?」を考えることはすなわち「人間の本質とは何か?」を考えることにほかなりません。なぜなら、
「あなたは不幸な事故に遭い、脳死状態になってしまいました。脳死状態では意識、感覚、感情、思考の全てが失われ自発的な動作もできません。脳死状態のあなたはあなたであると言えますか」
という問題について考えることに等しいからです。脳死の問題もちゃんと紐解いていくと”本質”という言葉に直面することになります。
どうでしょうか。個人的にはもはや脳死状態の自分は自分ではないような気がします。実際、法律でも脳死は死として扱われているようです。
脳死に限らず、クローンとかも人間の本質に関わってきますが、長くなるのでここでは掘り下げません。本質を考えることが必要になってくる場面はままあるということが本章で伝えたかったことでした。
まとめ
・Niとは「本質を捉える」機能である。
・本質とは「そのものとして欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素」のことであり主観的である。
・Niユーザーは物事に対する本質を無意識に理解し、それらをもとに自らのビジョンや理想を打ち立て体現しようとする。
・そのビジョンや理想を持つことになった経緯を説明しないと他人からは理解を得られない。説得してもらうための言語化能力(語彙力・論理力)が重要になる。
・言語化することによって自分の真意と少しズレてしまうことにはある程度目を瞑る必要がある。
・本質は社会的問題にも密接に関連している。